ふと思った、“いい人”ってなんだろうという疑問。
岡田斗司夫さんの
『超情報化社会におけるサバイバル術「いいひと」戦略』という本もあるように、
これからの時代に自らが“いい人”であることが、
互いを評価しあう中でプラスの価値をもたらし、
周りとの不用意な摩擦も少なくして
より生きやすくなっていくという認識があります。
(概要として私がそう考えています。)
ここではこの戦略や価値観がどうのという話ではなく、
そもそも“いい人”ってどういうことなんだろうか?との疑問が出発点です。
♦ 嫌われないことが“いい人”の条件?
それはあくまで結果です。
嫌われないことを目的にしても栄誉ある“いい人”称号は得られないのではと思います。
嫌われないようにしてたら、
意に添わないことも断れない状態に陥るというのは
社会生活を営む中では少なくありません。
「はい」と返事をすることの楽さは
断る際のストレスを考えると意外にやってしまいがちです。
特に仕事がらみの付き合いには多いのではないでしょうか。
(付き合った方がいいことも、付き合わなくていい判断も、難しいところがありますから。。)
無意識に当たり前と行っていた行動の結果から、
周りに自然と“いい人”と評されているのなら
いわゆる“強み”と呼ばれる才能です。
そうはなかなかいかない私からしますと
世の潮流とベクトルがあっていて羨ましい限りです。(笑)
♦ 「貢献する」のが“いい人”?
私もよく言うし、聞かれるのが
「人に親切にする」「貢献する」のが“いい人”。
まさにそうです。
このことに否定しようがありません。
そこで思い出したのが数年前の話になりますが、
アートディレクターの水野学さんの話です。
転んだ人に「大丈夫?」と優しく語りかけ絆創膏を渡す人は「やさしい」と感謝されるけど、
転ぶ前に、そこの石は危ないし転ぶからどかした方がいい、
もしくは道を変えたらいいと注意してくる人は感謝される?と。
きっと後者は嫌われる可能性が高い。
その石によって何度も転んでいたとしても。
もしくは、こちらが勝手に石をどかしたとしたら、
気づかれずに感謝もされなければ、
逆に絆創膏を渡していた人から恨まれるかもしれない。
(逆恨みはままあることですから。)
♦ そもそも私が“いい人”に気づけている?
人に注意をするのはとても面倒です。
言い方にも気をつけないと意図することがそもそも伝わらないし、
ヘタすればトラブルの元にもなります。
私も「石があるよ」と伝えるつもりが感情的になってしまい、
結局伝えるべきことが伝えられず友情を壊したことがあります。。。
(その後半年以上凹み愚痴ってました。過去、痛恨の一撃となった内の一つです。。。泣)
冷静に伝えることができて、
信頼関係も十分に築けているのなら耳を傾けてくれるだろうし、
転ばずにすんだ注意された人も石の存在を教えてくれたことに感謝もできます。
(石に気づけなかった自分の不甲斐なさに凹むことはあっても。)
また、絆創膏を渡していた人は
石の存在に気づいていたのでしょうか?
今できることをやってくれていたのかもしれません。
親切にされる側としては、
これは絆創膏なのか、石の存在を気づかせてくれる注意なのか、
単に今の自分へのアタリが柔らかく優しいことに有難がるだけでは
広い意味での“いい人”に気づけず感謝を忘れてしまいそうです。
♦♦♦ まとめ ♦♦♦
一次元的なわかりやすい話なら“こっちの方!”と判断がしやすいし、
自分もなるべく「石を注意する人」であろうと思うこともできます。
でも実際にはそんなわかりやすいシチュエーションなんかどこにもなくて、
「石を注意する人」は相手から嫌われるリスクを常に取ることになります。
そんなリスクは好きでもない人に取らないのも
大人社会のルールの一つですね。
『石は何か、絆創膏が何なのか』は
それぞれ読んでいる方にとって最適なものを当てはめていただいくとして、
実際の生活の中で「絆創膏を渡すやさしい人」と
「石をどかしなさいと注意する人」と、
私はどちらの“いい人”になることが多いだろう。
あるいは、私自身はちゃんと
“いい人”に気づくことができてきただろうか?
どんな“いい人”が“いい人”なのか、
周りに“いい人”が多いので考えてみました。
みなさま、
拙い私にいつも注意をしていただき誠にありがとうございます!!
それでは今日はこの辺で!また明日☆
*** 今日の雑談 ***
一昨日のことですが、
10kmの距離を体感するべく歩いてみたところ90分かかりました。
いつもは4kmほどなので普段の距離にして2.5倍、時間にして3倍はやっぱり長かったのですが(苦笑)、
翌日の昨日はとても体調が良く(よく寝られたからかも)、
1〜2週間に1度くらい10km歩くのもありかも。。新しい境地です。(笑)